こんにちは。
今日も朝から湿気ていて、
空は真っ白。
気温は冷たく、
くもった窓から外を眺めても、
ちっとも楽しい気分にはなれない。
窓の隙間から、
冷気と共に憂鬱な気分が忍び込んできて、
それが地味な色のカーテンに沁みこみ、
部屋が色褪せて見えるような気がします。
気がするだけなのか、
本当に色褪せているのか。
本棚に並んでいる本や雑誌の背表紙は、
確実に買った時より色褪せています。
窓辺の絨毯は、
陽のよく当たる処が白く退色し、
今では元の色がもう分からない。
多分カーテンも、
机も、壁紙も、花瓶や置物も、
全部少しずつ色褪せているんでしょうね。
一時として同じ瞬間が無いように、
全ての物は一時として変化を止めません。
常に経ている。
何処からも来ないし、
何処へも行かない。
ただ経るだけ。
昨日の僕と今の僕はさして変わりないように見えるけど、
厳密に比べれば随分違う。
人の細胞は日々生まれ変わってゆきます。
骨ですら毎日変化しています。
一つの骨が全く新しい骨に変わるのに3~4ヶ月、
全身の骨だと、
3年で全く新しい骨に生まれ変わってしまうそうです。
3年前の僕は、
今の僕とは全く違う僕。
でも、
何処へも行かないし、
何処からも来ない。
ただ経るだけです。
何処から数えれば全く新しい僕なのか。
来年の僕は新しいのか、
古いのか?
新しくなればなるほど、
古びてゆく僕のブログにようこそ。
新しいくせに、
あちこちガタが来ている僕ですが、
今日も少しお付き合いくださいませ。
僕が子供の頃、
この時期に来年の話をすると、
”来年の話をしたら鬼が笑うぞ”
と祖母によく言われました。
その頃の僕は、
笑うくらいなら別に良いじゃないか?
と、思っていました。
この諺の意味は、
人が死ぬ事を鬼籍に入ると言うように、
鬼が人の寿命を書いた名簿を持っていて、
そうとは知らず人が来年の事をあれこれ話しているのを鬼が見て、
馬鹿にして笑っている。
まぁ、
先のことをあれこれ考えるのは馬鹿げているって、
意味なんでしょうね。
それにしても、
馬鹿にして笑われるのは気分のいいものではありません。
でも子供の頃は子供同士、
馬鹿にしたり、
馬鹿にされたり。
笑ったり、
笑われたり。
まぁ、日常的な風景ではありました。
でも、
僕は馬鹿にすることより、
馬鹿にされる事の方が多かったように思います。
僕が内気でどん臭かったせいでしょうね。
それでもあの頃の僕は、
人に怒られるより、
笑われるほうが良かった。
僕は、
内気な割には何時も何か冗談を言っていました。
冗談を言って、
それで笑ってもらえるのは気分が良いもんです。
例えそれが自分を卑下する事で、
相手はその事を小馬鹿にして笑っていたとしても、
それで受けているなら良しとしていました。
その性格は僕の生活環境から由来していました。
僕がもの心付いた頃、
母は父と離婚し家には居なかった。
僕は、
母親が子供を諦めるなら、
父親だって子供を諦めるだろう。
祖母にいたっては、
僕には諦める気満々に見えていました。
こんな状況でブスッと扱いづらい子供なら、
さっさと他所にやられていたでしょう。
あの頃は、
そう言う事もよくある事で、
僕達兄弟も他所にやってはどうかという話が、
我が家ではなされていたそうです。
あの頃の僕は、
何となくそういう空気を肌で感じていたような気がします。
なので、
何時も喋っていました。
何時も何か冗談を言って父や祖母を笑わせていました。
父が家の工場で夜遅くまで残業していれば、
僕は何時も父のそばで話し相手になり、
深夜に仕事が終わるまで父に付き合いました。
そんな事をしていても、
いつか他所にやられるんじゃないか・
と、言う不安は何時も何処かにあって、
その思いは中学生くらいまで続いていました。
しかし、
祖母に対してはまだまだ疑心暗鬼で、
なかなか心を開きづらかった。
でも、
僕が高校生になった時、
祖母がお祝いに家のテレビを買い換えてくれて、
そこで初めて祖母に心を開き始めたような気がします。
あの頃の僕の鬼は、
父であり、
祖母でした。
僕が将来の話をすればするほど、
鬼は僕をあざ笑っているように思っていたのかもしれません。
僕がもう他所にやれない年齢に達した時に、
鬼が初めて僕の冗談で笑ってくれていると、
僕は思えるようになったんでしょうね。
数十年後、
祖母が鬼籍に入り、
祖母の押入れから僕の子供貯金の通帳が出てきました。
あの頃、
僕がたくさん貰ったお年玉を全て祖母に託し、
祖母は何時も、
”ちゃんと貯金してあるからな”
と言ってくれていましたから、
さぞかし貯まっているだろうと期待して通帳を開くと、
残高200円・・・
やっぱり祖母は鬼でした。
間もなく終わるこの一年。
世間では色々な事が起こり、
多くの事が変わりました。
僕はどうなんだろう。
細胞と骨はずい分変わったはずですが、
その他はよく分からない。
僕が変わるように、
僕の周りも変わってる。
僕だけ早く変わったりはしないし、
周りだけ止まったりもしない。
僕が生きてゆく為に使う定規で測ると、
ほんのちょっとは変わっているかも知れない。
でも、
無責任な人は、
去年より好い年にしなければならないだとか、
充実しなくてはならないだの、
志を高く持てだの。
各々が好き勝手に自分の定規をかざし、
好き勝手な線を引いて来ます。
人の数だけ定規があって、
全ての定規が違う長さです。
比べる意味は無いのに、
そんな定規でチャンバラをしかけてくる。
負けると分かっていて挑み、
それで負ければ潔し。
拒否すれば、
卑怯だの負け犬だのと言われ、
そもそも興味を持たないと世捨て人と言われる。
将来を見据えろだの、
来年の抱負だの。
持っている定規で来年の事は測れません。
それこそ鬼に笑われます。
人が持ってる定規は、
他人と長さを比べる為のものでは無くて、
生きる為にあるだけで、
只それだけのものなんですよね。
今の世の中は、
何かと個を尊重していてる様に見えますが、
多分それは、
個を無視しているだけ。
ほおって置くのと無視するのは違うように思います。
街中で、
前も見ずに小さな画面を見ながら歩く人々。
うっかりぶつかって、
こちらが謝っても無視される。
世の中はなるようになって行くだけで、
それが良い事なのか、
悪い事なのか。
僕の定規でそれを測れば、
悪い事のように思うだけで、
只それだけの事なんですよね。
なんとも陰気で、
摘み取られない柿のように徐々にしぼんで落ちそうな、
しみったれた僕のブログにお付き合いくださいまして、
誠にありがとうございます。
よかったら、
こちらの生き物達を、
あなたの定規で測ってやって下さいまし。
↓
こちらでイラストを描いてます