2013/02/08

社会性なき疾走








こんにちは。
寿司屋と豆屋が喜ぶ行事が過ぎ、
今度はチョコレート屋が喜ぶ嫌な時期がやって来ました。
この時期にチョコレートの話をするのは色々とややこしい。
頂いた数の話しなどしたら、
ただの自慢話になってしまうし、
チョコレートの必要性などの話をすれば、
単なる負け惜しみになってしまう。
じゃぁ、実際どうなんだ?
と聞かれれば、
毎年、近所に住んでる従姉妹から、
お義理を少し頂いていたりして、
なんとも中途半端に情けない。
頂いたチョコのパッケージの文字をなんとなく見て、
商品番号なんでしょうか05とかの数字を見つけると、
あぁ~、今年は500円か・・・
などと思ってしまう。

もしかして聞こえますか?
僕の心の中を吹きすさぶ風の音が・・・

やっぱり、チョコレートの話題は止めとけばよかったと、
反省中の僕のブログに時間を割いて下さって、
誠にありがとうございます。

チョコレートなんてただの甘いお菓子じゃないかっ!

優しい母の目を持って、今日も少しお付合い下さいませ~







































バレンタインデーがあれば、
ホワイトデーがある。
貰ったら、お返しする。
なんかお歳暮やお中元みたい。
本来、バレンタインデーは恋人同士の行事みたいなもんで、
僕は義理チョコなんてものにお返しなんかして来ませんでした。
それが、社会に出るようになると、そうは行かなくなる。
勤めてる会社の上司の奥方からお義理チョコなど貰うと、
返さないでいる訳には行かない。
もらった物よりちょっと高目のものを選んでお返しする。
こんなに気を使う必要は無いんでしょうが、
自分の性格上、そうせずにはいられないんですよね。
だいたい何時も僕が気を使いすぎている物をお返しするせいか、
翌年は相手も気を使ってお義理チョコはくれなくなるんです。
ある意味、それは正解なんですが、
ごくたまに、更にパワーアップしたお義理チョコを貰うことがあり、
自分の気使いを呪った事も、しばしばありました。
そんなこんなで、今は従姉妹に毎年貰うのみ。
この従姉妹と同居している姉妹の父親が僕の叔父さんになるんですが、
その叔父さんには、僕の父親が死んでから色々と世話になっています。
なので、それに対する感謝の意味も込めて、
毎年ホワイトデーで少し豪華目にお返ししています。
姉妹の一人は紅茶が好きらしく、
毎年色々な紅茶の詰め合わせを買い、
もう一つはその紅茶に合うお菓子を添えて渡しています。
それを買うために大阪の阪神や阪急デパートなどへ出かけるんですが、
ホワイトデーぎりぎりに買いに行くと、
普段は女性しかいないデパートの地下売り場は男だらけ。
とても違和感のある風景でございます。
今はブームは過ぎているみたいですが、
一時期、マカロンの店の長蛇の列には呆れてしまいました。
そんなにしてまで他人と同じものが買いたいのか?
と、一瞬偉そうに考えていましたが、
流行のもの(しかも流行るだけあって非常に美味しい!)
を彼女に食べさせたい!という男心(下心?)、
仕事を終えた後で疲れているはずなのに、
けなげに並んでいる男のいじましさ。
なんとも言えない気持ちになります。
それを横目に紅茶売り場へ行くと、
始めの頃は、ホワイトデーの時期の紅茶売り場は、比較的空いていたんですが、
ここ最近はメジャーになったのか、結構込んでいるですよね。
小さめのパッケージを幾つも持ってレジの列に並ぶオジサン達・・・
の後ろに並ぶもう一人のオジサンの僕。
なんとも言えないデパ地下春の風物詩。
並ばずにスマートに買えるシステムをぜひ提案して欲しいもんですよね~





































僕の父親は商売をしていましたから、
中元、歳暮の時期には色々と頂き物がありました。
返せば色々こちら側からも送っていたって事なんですけどね。
なので、その頃我が家では、
石鹸や洗濯用の洗剤などは買ったことがありませんでした。
子供の僕は石鹸は買うものではなく貰う物だと本気で思っていました。
と言うか、石鹸のことを真剣に考えた事がないだけなんですけどね。
そんな我が家もバブルが弾けて徐々に仕事が減り、
それに伴い贈り物も減ってくる。
父親が死んだ翌年には贈り物もピタッと途絶えました。
結局、あげたから、貰っていただけ。
そのやり取りの間に目に見えないものが動いてますよね。
見えないけど明らかに皆が知っているものが、
時には美徳になってみたり、
時には卑しいものになってみたり。
相互の自己満足なキャッチボール。
うまく続けている間は楽しいキャッチボールも、
何時かは疲れて来るし、
止めたくなる。
取り落とす時もあるし、
投げ損なうこともある。

どうやら社会性に少し欠ける僕、
どうしても最後の、お互いが止めたくなる雰囲気が嫌いで、
そのキャッチボールを始める気がしない。
年賀状も出さなくなって何十年。

世話好きで何時も人に気を使っていた父。
人のために走り回っていた父が大病で入院していた時、
世話した人は殆ど見舞いに来ず、
同級生だけが見舞いに来ていたのを観て、
考えさせられました。
目に見えないものの解釈は自分がするしかない。
でも気持ちなんてものは顔を見ればすぐわかるもんですし、
行動に現れるもんです。

僕はガッカリさせたくないし、
ガッカリしたくない。

いい大人が何を言ってるんだと!
と、言われても、
僕は一向に構わない。
したくなったら勝手にします。
どうぞお構いなく!
と、言えたら良いな~と思うんですが、
きっと言えないんだろ~な・・・
そもそも球技も苦手だし・・・
・・・?

































小さい子供の頃、
友達のあだ名って変なのが多かった。
変なあだ名のうえに呼び捨てっぽい響きの場合もありますよね。
友達同士であれば問題ないんですが、
その友達の親の前ではそうは行かない。
だから、その子の親の前では呼び方を変えてしまう。
僕はこれがすごく苦手でした。
親の立場から考えれば、
我が子が呼び捨てされたり、
奇妙な名前で呼ばれるのはちょっと嬉しくないだろうし、
友達に対して考えると、
こいつは親の前では呼び方を変えやがるやつだ。
と、思われてるんじゃないかと考えてしまう。
はい。
明らかに考え過ぎ。
わかっちゃいるけど考えすぎちゃう。
小さな頃からの幼なじみのある一人には、
未だにそのあだ名で呼ぶのに違和感が出てしまい、
その友達と会った時は、出来るだけ名前を呼ばないように会話している。
40年以上の付き合いなのにね・・・
















終わりなき疾走 浜田省吾