2014/01/22

私だけの自由字化







こんにちは。
最近どうも乱れ気味でほんとスミマセン!!
しっかりしなければならないのに、
中々色々と・・・
と、
言い訳をしてもしょうがない。
やるしかない。
だけなんですよね。

そんな事を言ってる間にもう1月も後半。
寒さが一段と厳しくなってきましたね。
成人式も終わり次の行事は節分。
何時の間にやら、
恵方巻きなるものが当たり前になっていて、
当然のようにかぶり付いている。
まぁ、
巻き寿司は好きなんで、
色々な種類の巻き寿司が店頭に並ぶのは嬉しいもんです。
この当たり前顔の恵方巻きのように、
当然のように毎年乱れる成人式。
そして、
益々派手になる新成人の女性の装い。
傍から見ている者には馬鹿馬鹿しいんですが、
やってる方は楽しい筈。
だから、
彼らは多分止めないでしょうし、
今はそういう時代なんでしょうね。
その内もっとすごい事になるかもしれないし、
成人式なんか無くなるかもしれない。
今の世の中は移り変わりが激しくて、
僕が生きてる間に、
世の中はとんでもない事になってしまうかも知れない。
将来、
テレビの前でブツブツ文句を言う自分が既に目に浮かぶ僕のブログにようこそ。
とんでもないのは僕の方かもしれませんが、
今日も少しお付き合いくださいませ。





































僕の成人式は遥か遠く27年前。
町役場の小さな講堂でささやかに催されました。
久し振りにあう同級生たちは懐かしい顔ばかり。
みんな近所に住んでいるはずなのに、
町で偶然会う事なんて殆ど無い。
最後に会ったのは中学生の頃か。
数字にするとたった4,5年なのに、
友人達はずい分変わっていたような気がします。
とっても太っていた友人が、
誰だかわからないくらい痩せていたり、
男か女か分からなかった少女が、
立派な大人の女性になっていたり。
ちっとも変わっていないような子もいましたけどね。
成人式の本来の意味はこの友人達との再会だけで、
催される式典にはまるで興味は湧かない。
必要性だって感じていなかった。
町長のスピーチは退屈なだけ。
ペラペラのスリッパで立つ講堂は暖房も効いていない為、
冷たい床に体温を奪われ身体の心から冷えてくる。
ちっとも楽しくない式典。
これって、
学童だった頃と同じ感覚。
あの頃はこんな我慢ばかりしていたように思います。
教室の暖房は非常に弱く、
朝、学校に登校しても教室はとても寒い。
時間が経つと徐々に暖房が効いてくるんですが、
温かいんじゃなくて、
外よりマシってだけ。
暖房が効いている教室ですら寒いのに、
全校集会などといって真冬の体育館に集められたりしたら、
ガクガクブルブルで歯がガチガチ。
非常に寒かった。
町長の話を聞きながら震えていると、
あの頃の感覚がペラペラのスリッパを履いた足から甦ってきました。
でもあの頃と違うのは、
誰も先生に怒られないって事。
誰にも怒られないけど、
僕達も騒いだりもしない。
僕達の頃の教育ってのはそう言う事だったんでしょう。
そして今、
成人式が乱れてしまうのは、
今の教育を反映しているからなんでしょうか。
それとも、
全く別の事なんでしょうか。
理由も無く起こることはありません。
只、
その理由は一つではなく、
瞬間、瞬間にに増えて行く。
今この瞬間は全て過程であり、
今この瞬間で完成しています。
何時だって答えは出ている。
でも、
みんな見たいものしか見たがらないんですよね。






































子供の頃になりたかった者になった人もいれば、
なれなかった人もいる。
ならなかった人もいるでしょうし、
そもそもたいして考えていなかった人もいる。
子供の頃の将来の夢なんて、
漠然とフワフワしていてそれこそ本当に夢みたいなもの。
宇宙飛行士になりたい、
お嫁さんになりたい!ってのは、
その時の自分がその時になりたいもの。
自分の20年後、30年後なんて想像できなかった。
まさかこんなに禿げるとも思わなかったし、
自分が46歳になるなんて夢にも思っていなかった。
子供の頃に皆で立小便していた空き地だった所にに、
自分が住むとも思っていなかったし、
足のサイズが25.5cmにしかならないなんて考えもしなかった。
だから、
これから先の事も怪しいもんです。
髪の毛はもっと白く少なくなるかもしれないし、
年齢が分からなくなるくらい顔はシミとシワで覆われるかもしれない。
今住んでいる所が空き地に戻っているかもしれないし、
足のサイズも縮んでいるかもしれない。
今まで生きてきた年数はたったの46年。
数字にすると何ともあっけない。
これから先、
生きれるかもしれない年数も数字にすればあっけない。
生きてきた人生を文字にすれば只のお話。
読まれなかったら只の文字。
どんなに一生懸命生きてきても、
どんなに素晴らしい事をしてきても、
文字にすれば一つのお話になるだけ。
読まれなかったら只の記号。
物語のた価値は文字にあるんではなくて、
それを読んだ人にだけ出来るものです。
いくら偉人の人生と自分がかかわったとしても、
自分の人生は自分だけのもの。
自分の人生の意味は生きている時にしか無くて、
今この瞬間にしかない。
そして、
後に残るのはお話だけ。
誰かが伝えれば物語は残るけど、
伝えなければ何も残らない。
人生は自分で書き記してゆくもの。
他人にとやかく言われる筋合いはありません。
どのように書いたって構わないんです。





































何かにならなければならない人生なんてありません。
こうであるべき人生の道なんてのもありません。
自分でこうすべきだと道をつけても良いし、

風が吹けば港に
船は帰りくるように

只生きているだけでも良いんです。

何か残したかったら、
好きなように生きて、
好きなように何かを残せばいいんです。

誰か読んでくれれば物語が生まれるし、
読まれなければ
只の文字。

どおって事の無い只それだけの事です。













さっぱりと割り切って生きれないのも人生。
今日も、
ジタバタもがく大人になれない中年にお付き合い下さって、
誠にありがとうございます。

こちらの生き物たちは僕の物語です。
ここを訪れてくれた方に語り継がれるといいなぁ~



イラストを描いてます。



ダークブランコ Dark blanco



私だけの十字架  ファウスト・チリアーノ












































2014/01/11

遠くへ遺棄したい








こんにちは。
笹が揺れる今日この頃。
シンシンと寒さが増し、
触る物はみんなキンキンに冷えている。
僕の身体はブルブル震えるばかりで、
いい加減この寒さにはうんざり。
早く何処かに行ってほしいんですが、
そんなつもりは無いらしく、
光熱費のみがホクホク顔で膨れて行きます。
意を決して、
大神神社(おおみわじんじゃ)に初詣にでも行こうと出かけたんですが、
元旦から一週間過ぎているのに大勢の参拝者。
ぴりりと寒いシーンとした神社の中、
自分が踏む砂利の音だけ聞きながら参拝したかったんですが、
7日経ってもてんやわんやの大騒ぎ。
2分間考えて車をUターンさせて帰ってきてしまいました。
子供の頃、
初詣は人が多いほど楽しかった。
人が多いほど夜店も多く出ますから、
子供の僕はよりいっそう興奮する。
あれ買って!
これ食べたい!
あれ見たい!
と、散々騒ぐも何も買って貰えず、
毎年ふくれっ面で新年を迎えていました。
それでも、
賽銭を投げ、
今年一年の願い事をし、
蛇が祭られてる大木付近のお神酒の匂いを嗅ぎ、
おみくじを引く。
人混みで小さな僕には周りが見えなくて、
父に手を引かれながら夜空を見上げると、
大きな杉の木がタイマツの明かりでゆらゆらしていました。

今では、
寒いだけで二の足を踏み、
人混みで三の足も出ない信心浅い僕のブログにようこそ。
罰当たり人生の僕ですが、
今日も少しお付き合い下さいませ~













































僕が子供の頃、
元日の深夜には大神神社へ初詣に出かけていました。
人気の神社の周辺の道路は車で大渋滞。
大神神社から僕の家まで10km以上は離れているのに、
家の近所の県道は既にノロノロ渋滞。
僕の父は裏道をあちこち走り回り、
結局早かったのか遅かったのか、
小学生の僕は移動中にすっかり眠くなってウトウト。
ようやく神社付近に到着するも駐車場なんてあるはずも無く、
ケチな父が有料のぼったくり駐車場に車を停めるはずも無い。
結局大神神社からずい分離れた山の麓に車を駐車し、
照明も付いていない真っ暗な山道を神社目指してミッドナイト・トレッキング。
でも、同じような考えの人は結構居て、
深夜にもかかわらず真っ暗な山道に大勢の人がぞろぞろ歩いてる。
最初は寒くてネムネムだった僕でしたが、
非日常的な風景を目にし、
徐々に目が覚めて来て、深夜のハイキングがとても楽しくなってきました。
単純だった僕。
その道は大神神社の裏に続く道、
裏道でしたから夜店のある表の参道は通らない。
何かをねだりたくてもねだる夜店が無いのだからねだれない。
今考えると、
父の策略にはまり、
寒い夜道を散々歩かされただけのしんどい初詣。
一度だけ火縄を買ってもらい、
火縄にタイマツの火を付け、
火の点いた火縄を回しながら持ち帰り、
その火縄の火で雑煮に火をつけて食べました。
たいした事ではなかったんですが、
今でも覚えてる。
夜店で買ってもらった物なんかちっとも覚えてないのにね。
むしろ、
今ではその記憶しか残ってない。
大人になって知りましたが、
父と歩いた山道は山之辺の道で、
現在元旦の時は、
山道の入り口に警察が立っていて駐車出来ない。
もう再現は出来ませんが、
目をつむって思いを馳せれば、
今でも赤い火縄の火が暗闇にくるくる回っています。









































大阪で一人暮らしをしていた頃、
正月には何時も実家に帰っていたんですが、
実は家に帰りたくなかった。
本心は下宿のコタツに入り、
テレビを見ながら独りで年を越してみたかった。
やろうと思えばいつでも出来たんですが、
父や祖母への罪悪感からそんな事は出来ませんでした。
あのボロボロの小さな安アパートで、
独りやさぐれてみたかった。
そして今、
現実に独りで正月を迎えている僕。
おせち料理も食べず、
大掃除もしなかった。
初詣にも今だ行かず、
墓参りもしていない。
完璧にやさぐれている今の僕。
でも、
近所には兄や親戚が住んでいますし、
友人や恋人もいますから、
完全な孤独じゃない。
それに、
完全な孤独なんて寂しすぎる。
でも、
心の何処かにそれを望んでいるところがあります。
まったく知らない街で独りでひっそりと暮らしてみたい。
なじみでもなんでもないスーパーで買い物をし、
聞いた事もなく意味も分からない方言を聞き、
小さな銭湯で居心地の悪い思いをしてみたい。
知らない街の夕暮れ時、
真っ赤な夕陽に染まった街で、
人の声や電車の音を聴き、
何処かの家の夕飯の匂いを嗅いで、
疎外感を味わいたい。
生まれた街でもないのに胸がギュっと締めつけられ、
孤独を感じる。
そんな願望が僕にはあります。
でも、
帰れる場所や迎えてくれる人があるゆえの我がままで、
本当の孤独なんか分かってはいません。
何故こんな気持ちになるのか。
僕に収集癖があるせいなのかも知れません。
今まで集めてきたどうでもいいようなガラクタ達。
沢山のCDや雑誌や本。
家や車や洋服、
責任や義務やその他もろもろ。
減らずに増えて行くばかり。
頭の中でも日々記憶は増えて、
色んな思いや感情が積み重なって行きます。
小さなヤドカリが大きな貝殻を背負い、
その貝殻に海藻やらイソギンチャクなんかを沢山生やして生活しているみたい。
やがてその重さで動けなくなる。
人はその見えない重さに時々耐え切れなくなり、
立ち止まったり、
座り込んだり、
泣いてみたり、
暴れてみたり。
これらはなにも解決してくれませんが、
そうすることで少しは払い落とせたような気がする。
そうすれば人はまた歩き出せます。
諦めでもないし、
開き直りでもないと思う。
多分思い悩んだ時、
人は少し大きくなるんでしょうね。
だから重たくなった貝殻をまた持ち上げられるんじゃないでしょうか。
背負っている貝殻が見えるなら、
人はそれぞれ生きてきた分の大きな世界を背負っていて、
本当は重くて足がプルプルしてるのに、
笑ったり、泣いたり、
怒ったり。
人は皆生きているだけで大変なんです。

知らない街を歩く時、
背負っているものを少し降ろせるような気がします。
少し身軽になって、
その街で新しいものを背負えるような気がするからかも知れません。
少しヤケになって、
やさぐれて全てどうでもいいと投げ出せば、
少しは楽になれる気がするから、
独りになりたいのかも知れません。
でも、
気がするだけなんですよね。








































沢山のものを背負っていても、
一度に思い出せるのはほんの僅か。
頭の中でくるくると火縄の火が回っている間は、
僕は暗い山道を楽しく歩いています。
その火がフッと消えた時、
暗闇の中で僕の手を引く、
父の手の感触だけが残っています。












若干背負っているものが大きくなって、
足がプルプルし出している為、
泣き言を垂れてるだけの僕のブログにお付き合い下さって、
誠にありがとうございました。
大体の事は自業自得。
思い悩んで大きくなるのみであります。

こちらの生き物たちがあなたの荷物になれるといいなぁ~
こちらでイラストのブログをしています。
よかったら覗いてやって下さい。