2013/05/31

ツナの扉






こんにちは。
僕が言うまでも無く、世間は梅雨でございます。
表に出ると、ムウッ!と感じる空気の厚み。
ねずみ色の憂鬱な空からは、
雲がかいた汗のような雨が、
ポタポタポタ・・・
不快だ・・・

若い頃、
髪の毛が多く、
しかも長く伸ばしていたあの頃。
こんな梅雨の時期は非常に辛かった。
肩まである髪の毛を何もせず垂らしていると、
首元が熱い。
ならば束ねて縛っておくと、
頭が熱い。
でも、それを愚痴ったりしたら、
”なら髪の毛を切ればいいやん!”
と、言われてしまうので、
人前では何時も平静を装っていました。
しかし、
そんな贅沢な悩みも遠い昔。
今では、
髪の毛を切っても誰にも気付いてもらえず、
まるで昔の僕とは違う人みたい。
髪の毛に関しては、
昔より今のほうがかなり爽快なんですが、
でも、
やはり梅雨は嫌なもの。

梅雨って、夏の扉みたいなものですね。
この扉が開けば、
素敵な夏に会うことが出来る。
けれど、
この湿った重い扉はなかなか開かない。

夏の扉を開けて、
何処かへ連れて行って欲しい僕のブログにようこそ。
ジットリ汗まみれで、
フレッシュでも何でもありませんが、
今日も少しお付き合い下さいませ~

































湿度の高いこの時期になりますと、
冬には無かった心配事が色々出てくる。
カラッカラに乾燥していた冬は、
インフルエンザなどのウイルスが繁殖しやすいんですが、
ジメジメと湿気ってくるこの時期は、
食中毒を引き起こすバクテリアが繁殖しやすいんですよね。
料理をしている時、
まな板で鶏肉を切り、そのまな板を洗わず、
うっかり生食するサラダ用の野菜をそのまな板で切り、
それに気付かず、
食べ終わった後でその事に気付く・・・
ドキドキで過ごす数時間。
結局何も無く済んだんですが、
運が悪けりゃトイレに直行で、
トイレでの下痢生活が始まりかねません。

若かった頃はそんな事”へ”でもなかったんですが、
歳を”経”だした現在、
そう言う事がとっても気になる。
前は買ってきた野菜は、
水道水の流水でチャチャッと、洗うだけでした。
しかし今では、
たっぷりの水道水を貯めたボールの中でしっかり洗い、
仕上げにもう一度流水で洗浄。
若干過敏過ぎな今日この頃。
以前は、
レストランなどで肉料理を食べる時に、
焼き具合を聞かれるようなところであれば、
”ミディアム・レアでお願いします。”
などと”ナマ”言っておりましたが、
今では必ず
”プリーズ ウエルダン ”
と、これまた”ナマ”を言う僕。
まぁ、それ以前に、
最近はレストランで肉を食べてないですけどね。
しかし、
血の滴るステーキなんてもう食べられない。
焼肉だって、
以前は一つの箸で全てをまかなっておりましたが、
今では生の肉を掴むのは、トング。
トングが無ければ、
それ専用に箸を用意する。
でも、
うっかり食べる用の箸で生肉掴んでしまい、
新たに食べる用の箸を用意するも、
また生肉を掴んでしまう。
結局テーブルは箸だらけになり、
どの箸が食べる用なのか分からなくなっちゃうんですよね。

我ながら過敏過ぎだと分かってはいるんですが、
年齢と共に慎重になるのは、
中年になって気が弱くなって来ているんではなく、
加齢と共に身体の抵抗力が落ちて来ている自分を守る為の、
自己防衛本能なんでしょうね。

僕は何時も自分に言い聞かせます。

かな?って思った事は絶対やっておく。

物凄い下痢で脂汗まみれの僕を手招きする夏のトイレの扉なんか、
僕は見たくないですからね。



































僕が生肉以上に怖いのが、
生の海老でございます。
これだけは絶対食べません。
生の海老にあたってお腹を壊した訳ではないんですが、
どうしても生では食べられない。
プリプリっとした生の海老を見ると、
子どもの頃にした、ザリガニ釣りを思い出しちゃうんですよね。
駄菓子屋で串に刺して売っているみりんイカ?を買ってきて、
それを少し裂いて凧糸に結びつけ、
それを餌にザリガニを釣ります。
そして、
最初に釣り上げたザリガニを解体し、
そのザリガニのプリプリの身で次のザリガニを釣る。
そう、
その時のプリプリのザリガニを思い出してしまうんですよね~
そのザリガニの思い出は、
そのプリプリの身だけではなく、
ザリガニがいた沼の臭いや、ウシガエルの鳴き声。
そこで目に虫が入って目が真っ赤になった事などの記憶が、
一緒くたに思い出されてしまうから、
生ではもう気持ち悪くて、食べれないんですよね。

大体、魚を食べる事が苦手な僕。
小さい頃から我が家では、
食卓に魚があまり並ばなかったせいもあり、
僕は魚を食べるのが非常に下手なんですよね。
魚が丸ごと焼かれて出てきても、
うまく小骨をよけられない。
悪戦苦闘の結果、
食べ終わった皿の上の魚は、
骨やら、身やら、頭やら、尻尾やらがゴチャゴチャになり、
まるでバラバラ殺人事件状態。
お腹は一杯ではないけど食欲は萎えて、
気持ちが不満で一杯になってしまう。
ダイエットにはなるみたいですけどね。
そんな、
大事な成長期の僕に、
カルシウム補給の為に親が用意したのが、
ツナ缶でございました。
これには驚きました。
子どもの頃に初めて魚が美味しいと思えたんですよね。
まぁ、
油まみれのツナのフレークに、
マヨネーズをかけて食べる訳ですから、
美味しくない筈がないんですけどね。
でもあの頃の僕が、
それをきっかけに魚を少し好きになり出したのも事実なんですよね。

ツナの扉を開けると、
新しい魚料理の世界が僕を手招いていました。



































しかし、
”三つ子の魂百まで”ではないですが、
45歳の今。
僕はほとんど魚を食べていません。
回転寿司屋に行っても、
イカとか、
生タコとか、
ツブ貝とかしか食べれない。
この三つは生でも平気なんですよね。
なんか、矛盾してますよね。
かっぱ巻きは食べるけど、
ウニは全然食べられない。
マグロやトロは美味しそうなんですが、
ちっとも手を出そうと思わない。

子供の頃に食べれていた刺身なんかも、
今ではちっとも魅力を感じない。
カツオのタタキなんか、
木を切って皿に並べているみたいに見えてしまう。 
なんとも安上がりな口になったものです。

食中毒の危険性だとか、
加齢による自己防衛本能などと、生意気な事を言ってますが、
どうやらこれは、
”加齢による精神の幼児化”
なのかもしれませんね。
老いて子供じみてゆくなんて・・・
こんなんじゃイケナイ!

フレッシュ!
フレッシュ!
フレ~ッシュ!

もう一度、
ツナの扉を開けて、
僕をどこかへ連れて行って!!!










もう、フレッシュの片鱗もない僕に、
本日もお付き合い下さって、誠にありがとうございました。
生は色々問題が出てしまうものですね。
くれぐれも、
気を付けたいものです。

こちらには若干のフレッシュがあるかもしれませんので、
ちょこっと覗いていって下さいまし~









2013/05/24

だって情緒がないじゃない




こんにちは。
清々しい日々が続いてます。
この時期、
僕の住んでいる村では、
自分の家の横の溝を掃除をしなければなりません。
田植えが始まる前に溝の泥をさらっておいて、
田んぼに汚い水が流れ込まないようにする為だそうです。
その溝そうじ(つゆはりと言います)は5月の最後の日曜日に、
村で一斉に行われます。
以前、
つゆはりの日は村にある銭湯は昼から営業をし、
料金は無料!
日曜の朝から泥だらけになり、
クタクタになった村人をねぎらっておりました。
が、しかし。
数年前に村の銭湯は廃止され、
つゆはりの日のねぎらいは、
一家族500円のジュース代に姿を変えました。
これって、
金額的には銭湯無料と変わらないんでしょうが、
なんか味気ない。
そう、
情緒がないんですよね。
ま、無いよりはマシか~などと思っていたんです。
が、しかし。
まぁ皆さん聞いて下さい。
一昨年からそのジュース代も廃止だと!
どういうこっちゃ~!!
一人もんの僕が、一家族3000円の自治会費を払ってるのに、
労をねぎらうジュース代をねぎるとは何事か~!!
自治会費、何に使っとんのじゃぁ~!
責任者出て来~い!!
と、
ドロガメならぬドブガメおやじのボヤキブログ?
僕の人生の行路はふらついていますが、
文句だけは一人前。
うるさかったら飛ばし読みで結構ですので、
今日も少しお付き合いくださいませ~




































さて、つゆはりでございますが、
僕にとって日曜日は非常に都合が悪いんですよね。
でも、つゆはりに参加しないのも、
村ですから何かとあとで・・・
と、言う事で僕は数年前から、
前日に一人で家の溝を掃除しておくようにしています。
集めたドロは当日配られる砂袋に入れるんですが、
僕は良く似た袋を自分で買って、
それにドロを詰め、
つゆはり当日の朝に家の前に出して出かけます。
参加してるような、してないような感じですが、
今のところ誰も文句は言いません。
しかし、我ながら情緒が無いな~と、
何時も少し罪悪感。
そんな感じで数年過ぎた今日この頃。
一昨年くらいから僕の家の近所で、
前日つゆはり家族が一軒、また一軒と増えてきた。
考える事は同じなのか?、
はたまた、
僕の真似なのか?

村と言うのは、
助け合いと言う名の下に、
平等と言う平均化を図ります。
村の誰か一人が突出すれば、
自然と村が揺す振られ均される。
村の誰か一人が窪んでも、
これまた揺す振られて均される。
あまりにも突したり、窪すれば、
八部にされる。
村社会とはそういうものでした。
が、しかし。
近代化に伴いそれらは要らなくなり、
昔の村と言うのは無くなってしまいました。
今残っているのは、
情緒的なだけの過去の村風。
まぁ、
それが現代の村社会と言えば、それはそうなんですけどね。

そんな今風の村社会の規律が、
僕の近所から少しずつ崩れ始めてる。
しかも僕のせい?っぽい。
村人が一斉に掃除をするのは、
見た目かなり平等であり、
団結している風なんですが、
本当はちっとも平等なんかじゃない。
家族の誰かは掃除しているけど、
同じ家族の誰かは寝てるかもしれない。
大きな溝の横の家は全身ドロまみれだけど、
小さな溝しかない家は、手にドロも付かない。
昔の村ならはやく終わった者が、
大きな溝の家を手伝っていたんでしょうが、
現代風の平等は、
それを手伝うことが不平等になってしまう。
本来平等なんてものはこの世に存在しないものですから、
その時、その場に応じて、
平等はぐにゃぐにゃと姿を変えます。
その不公平な平等こそが村社会。
今も窓の外から、
近所の何処かの家から、前日つゆはりする音が聴こえてきます。
この流れは止まることなく広まって行くでしょうね。
こうやって時代に合わせて村が姿を変えて行きます。
あまりにも歪になれば、
自然と村が揺す振られ、
今風に均されるでしょう。
近い未来の均された”つゆはり”は、
自治会費を値上げし、
そのお金で、業者まかせの”つゆはり”になるかもしれません。
そしてその時、僕は無責任にこう言うでしょう。

”情緒がないな~!!”



































僕が子どもの頃、
日曜日が休みの店って結構ありました。
小さな商店なんかはもちろん、
ガソリンスタンドでさえ殆ど日曜日は休んでいました。
父親と車でドライブに出ても、
ガソリンが乏しくなると、
せっかくのドライブなのに、
営業しているガソリンスタンドがなかなか見つからなくて、
父親がイライラしてきて楽しいドライブが台無し・・・
なんて事がよくありました。
今なら日曜日に閉めるガソリンスタンドのほうが少ない。
コンビニエンスストアにしても、
何時の間にやら年中無休で24時間営業があたりまえ。
田舎の真っ暗な夜中の県道沿いに、
ポツンと灯るコンビニの明り。
昔なら、
24時間営業なんて情緒が無いと思われたでしょうが、
今では暗闇に灯るコンビニの明りにも情緒が生まれ、
店先でたむろするワイルド・ボーイズも馴染みの風景。
まっ、そんな時のコンビニには入らないけど・・・
子供が遊ばなくなった近所の公園も、
今ではあたりまえの風景で、
ぼうぼうに伸びた雑草が風に揺れている。
暗闇を歩く人の顔が、
凝視している携帯電話の明りで青くなっているのも、
今ではあたりまえの風景。
都会の人ごみで、
鞄がぶつかっても、足があたっても、
しらんぷり。
僕が”すいません!”と、言っても、
しらんぷり。
それも、今ではあたりまえの風景。

人はそれぞれの位置からものを観ています。
僕の核になっているところは、
僕にとって良い思い出のあるところ。
だから、
今あげたような事に情緒なんかは感じられない!
感じたくなんか無い!
と、
時代に馴染めない中年のボヤキを、
”あぁ~、禿げたおっさんがまた何か言ってるな~”と、
と、眺めているあなた。
こんな僕にあなたなりの情緒を感じたりしますか?








































親に叱られた時、
”そんなんしょうがないやん!”
と、少年の僕は言い返しておりました。
そうすると親は、
”しょうがないことなんかあるかーっ!”
と、僕を叱る。

世の中は立ち止まりもせず、
変化を止めたりはしません。
だから、
世の中の大半はしょうがないことだらけ。
だからやっぱり、
”そんなんしょうがないんです。”
でも、
簡単に受け入れるのは違うような気がします。
しょうがないからと皆がボヤかなくなって、
心の中にモヤモヤを溜め込み、
みんな何時も不機嫌顔で無愛想になんかなったら、
世の中、情緒のへったくれもなくなってしまいまからね。

でも、それはそれで、
その時代の顔になるんでしょうけどね。

そんなのやっぱり、
情緒がないな~








情緒、情緒とうるさいわー!
このハナクソー!
と、怒鳴られそうな私のブログ。

我がまま気ままな事ばかりお喋り申しまして、
”そんなおもろないブログは読みたないぞー!”
の声も無く、
最後まで御清読ありがとうございました。


ついでで申し訳ございませんが、
こちらも少し見ていって下さいませ~